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読んだ本を忘れてしまわないためのアウトプットの場。読んだ本の中でも是非皆さんに読んで頂きたい本を【お勧めの本】として紹介しています。本を選ぶ参考にしてみてください。

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『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)
反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)
岩波書店 2008-04
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おすすめ平均 star
star現場の状況がわかる
star貧困について
star一体,我々はどこに向かっているのか?

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日本には、雇用(労働)、社会保険、公的扶助という三段階のセーフティネットが存在する。真面目に働いていれば、正規雇用である限り一定の給与は保証されるし、仮に失業すれば失業給付を受けることができ、その間に職を探すことができる。それでも職が見つからず、財産も底をついてしまったという場合には、最後の手段として生活保護制度によって最低限の保証を受けることができる。しかしながら、この三層のネットが機能する対象は、全国民ではない。現在の労働者の34%総務省調査)を占める非正規労働者の場合、より高い失業リスク、非正規であるがゆえの無保険、さらには生活保護受給申請の困難さという三層それぞれの穴に続けて落ち込んでしまう。つまり、非正規であるがゆえに最初の穴から落ちてしまえば、あとの二層は素通りである。このような社会を著者は「すべり台社会」と呼ぶ。
 
では、非正規雇用にしかつけない人間が悪いのだろうか。センの「貧困はたんに所得の低さというよりも、基本的な潜在能力が奪われた状態とみられなければならない」(『自由と経済開発』)という主張を引用しながら、著者は、この「潜在能力の欠如」という概念に対応するものとして「溜め」という概念を紹介する。「溜め」とは、お金や人間関係などの様々なものに対して我々が備えている蓄えのことであり、例えば貯金などは分かりやすい金銭的な「溜め」であり、困ったときに助けてくれる友人や知人、親の存在も人間関係の「溜め」であると解釈できる。そして、「貧困とは、このようなもろもろの溜めが総合的に失われ、奪われている状態である」(P80)と定義でき、著者は、彼らは何の努力もしていないという「自己責任論」に対して、「自己責任論とは「他の選択肢を等しく選べたはず」という前提で成り立つ」ものであると反対する。
 
著者の自己責任論への反論が少し不十分な気がするので少し補足させて頂く。
そもそも、人間は平等ではない。個々の能力や容姿に始まり、家柄や親族の地位などの人間関係、さらには社会環境まで含めれば、平等などとは絶対にいえない。したがって、このような「溜め」の有無も、一見すればその不平等の一環であると捉えることができるように思える。しかしながら、親族からの援助もなく、高校を卒業して大学にもいけず、低賃金・重労働の中で職を転々とする生活をしている人が「溜め」を作ろうとしても、ラットレースをひたすら走り続けるに終始してしまうのである。そのような人が「溜め」を作るには、それこそ人に好かれる才能であるとか、勉学に秀でた(努力のできる)才能であるとか、生来の「溜め」の欠如を補うだけの人一倍優れた性質を本人自身が持っていない限り難しい。では、そのような優れた才能を持っている人間が貧困層にどれだけいるのだろうか。そして、そのような才能の欠如と「溜め」の欠如が相まっている人に対して、自己責任という言葉だけで片付けてしまってよいのだろうか。
 
繰り返すが、人間は平等ではない。これまでの議論からかなり大まかに大別すれば、才能と「溜め」の両方を欠いている者、どちらか一つを有している者、双方を有している者の4種類に分けることができる。つまり、才能と「溜め」の両方を有していなくとも、どちらか一方でも有していれば大抵は生きていくことができるのである(むしろ、どちらか一方を有していたにも関わらず貧困に落ちるような人こそ自己責任といえるかもしれない)。しかしながら、双方を欠いている人間についてはどうか。現在の日本における真の問題は、この双方を欠いている人間が底辺から這い上がることができないという「貧困から抜け出す機会の欠如」にあるといえるだろう。「溜め」と才能を欠いた人間(こういえば聞こえは悪いが、すなわち一般的な能力を有する人間のことである)が、ゼロからでも「溜め」を作り出していけるような、つまりは貧困から脱出できるような社会を作ることが国家の役割なのではないのだろうか。
 
そのためにはやはり最低賃金の引き上げが必要なのか・・・まだ知識が足りないので、これについては日を改めて考察したい。
 
先進国の中では珍しく、日本には貧困指標が存在しない。そのため、日本における「公的貧困ライン」というのは、生活保護受給者が毎月受け取る金額であると解釈するしかない。実際に、地方税を初めとした減免制度やその他の様々な低所得者向けのサービスは、生活保護基準に連動した制度となっている。この基準を前提に置けば、生活保護基準を下回る消費水準の人々がいる事実を理由に、生活保護水準を切り下げるという政策がいかに本末転倒かわかるだろう。子どもの養育費を捻出するために消費を限界まで切り詰めている世帯の実情などは考慮せず、数字上の比較のみを根拠に生活保護基準を切り下げる。そして、生活保護水準を切り下げれば、収入が増えたわけでもないのに就学援助等の低所得者向けサービスを受けられなくなった人々の負担は増加し、彼らの消費水準はさらに低下する。低下した消費水準に比較され、さらに生活保護基準が下がる。まさに「底辺に向かう競争」(P191)である。必要なのは相対的ではない絶対的な貧困基準だ。低所得者の人々の生活実情を考慮せず、形式的な数字のみで相対的に国民生活を測る行為は、憲法25条を遵守しているとはいえない。
 
本書では生活保護の受給の難しさ、いわゆる「水際作戦」についても詳しい事例とともに紹介されていた。また、自分の地域の生活保護費を計算できる生活保護費自動計算が著者の活動する「NPO法人自立生活サポートセンター・もやい」で配布されている。自分の給与と比較する参考にしてもらいたい。
 
~メモ~
失業者300万人に対して移民を受け入れる意味
最低賃金引き上げの効果
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2010-02-14(Sun) 12:21| 評論| トラックバック 0| コメント 0

『人間の安全保障』

人間の安全保障 (集英社新書)
人間の安全保障 (集英社新書)Amartya Sen

集英社 2006-01
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おすすめ平均 star
star新書版の論文集。分かりやすいが、読みづらい。
star人は人として人に何をするべきなのか
star訳のせいか・・?

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国際連合によれば、「人間の安全保障」とは、「武力紛争、暴力、貧困、環境破壊、HIV/エイズを含む感染症など世界の人々が直面する広範で深刻な脅威に対し、人間の視点から より包括的で 効果的に対処していこうとする考え方」のことであり、1994年に国連開発計画(UNDP)が『人間開発報告』で初めて打ち出した。しばし誤解されるが、センが同概念を考え出したのではない。しかしながら、地球温暖化を証明したわけではないのにもかかわらず、アル・ゴアがノーベル平和賞を受賞したのと同様に、センは「人間の安全保障」という概念に注目し世界に広めることに成功した。本書は「人間の安全保障」という概念に留まらず、グローバル化やインドの核政策など幅広い分野と関連させながら、「人間の安全保障」を達成していくことの重要性について論じられている。
 
「人間の安全保障」を達成するにあたり、センは基礎教育が最も重要であると冒頭で述べる。学校教育は欠乏状態を根本的に解決するが、それ以上に私達のもつ多様性や世界を自由かつ論理的に認識する力を与えてくれる。多様性を容認せず、世界を白か黒かで判断する姿勢は、紛争の原因になりうる。もちろん、多様性を理由に全てを許容してよいわけではない。何が正しくて何が間違っているのか。それを人々が自由に議論し考えていく前提として、基礎教育が必要なのである。
 
例えば、センはグローバル化や民主主義化の趨勢を西洋文化の押し付けと考えるべきではないと説く。グローバル化は途上国に貧困をもたらすという議論があるが、では市場経済よりも閉鎖経済を採用するべきなのだろうか。確かに現在の状況をみれば、多くの途上国が先進国に搾取されているようにみえる。しかしながら、この不平等の原因はグローバル化それ自体にあるのではなく、現行の利益配分の制度がバランスを欠いていることにあるのである。
 
また、民主主義の拡大についても、ロールズの「公共の理性の実践」を参考にし、「市民が政治議論に参加して、公共の選択に影響を及ぼす機会」を民主主義の概念と捉えるべきと説く。つまり、民主主義とは単に普通選挙を導入することではなく、公共の場における多様性を導入するための制度なのである。こうした開かれた社会というのは、歴史上、世界各地において例がみられる。したがって、民主主義を西洋文化とみなすべきではないのである。
 
グローバル化と民主主義について、それらを導入することが絶対に正しいとセンは主張していない。グローバル化と民主主義についての批判を精査し、両者を論じていくうえでの正しい議論の方法を提示しているだけである。そしてまさに、こうした論理的かつ多面的見地を可能にするのがセンの主張する基礎教育だと捉えることができるのだ。
 
こうした議論の姿勢は人権を論じる際にも当てはまる。人権という概念を正確に定義する必要はないとセンは言う。それよりも、「問題となるケースに関連した要因に留意しながら、倫理的に何をすべきか、自ら進んで検討すること」(P157)こそ重要なのである。
 
 
「人間の安全保障」を国際関係の側面から見ると、他国内における人間の保護を理由に国家主権を排除するための論理として用いられることが多々ある。NATO空爆に代表されるアメリカの武力行使などは正にその例であって、私自身も「人間の安全保障」を同様の意味で捉えてきた。しかしながら、センによれば「人間の安全保障」とは、途上国開発における「人間的発展」という概念と、人権という概念の双方を補完するものなのである。つまり、途上国開発において、経済が発展していく上で人間の生活の妨げになる障害や不平等な利益の配分を除去することを目的とする「人間的発展」に対して、経済の停滞における社会的弱者の保護を目的とするのが「人間の安全保障」なのである。また、人権との関係については、
 
<人権>の概念はもともと、基準を確立する性質のものであって、具体的にどの自由が重要で、社会がそれらを承認し保護し促進すべきか、といった問題には答えていません。その点、<人間の安全保障>は、新旧それぞれの不安定な状況からの解放が重要であることの確認に、いちじるしく貢献します。(P41)
 
つまり、一般的な枠組みとして考えられる人権に「不安定な状況を克服する重要性」を提示することで、どの人権を優先すべきかを決める基準と成る概念が「人間の安全保障」ということなのだろう。
 
センは何が正しいとか間違っているといった判断は下さない。ただ、そうした判断を人々が議論することの重要性を説くのである。それは民主主義によってしかなしえない。その点において、私は民主主義を擁護するセンに賛成するものである。

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2010-02-10(Wed) 19:30| 評論| トラックバック 0| コメント 0

『生と死の倫理―伝統的倫理の崩壊』

生と死の倫理―伝統的倫理の崩壊
生と死の倫理―伝統的倫理の崩壊Peter Singer

昭和堂 1998-02
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star論理的に間違いはない
star愚直なまでに論理的
star徹底した論理構成と伝統的権利概念への固執

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本書は10年以上も前に出版されており、今日の医療技術の発展を考えると、医療現場における「死の定義」を考えるには少しばかり古い文献に分類されるかもしれない。しかしながら、豊富な事例を通じて経験的に新しい倫理観を構築していく試みは非常に参考になり、かつ納得できるものだった。

著者は哲学者として「死の定義」を再考する上で、我々の死生観が問われるような数々の事例を紹介していく。冒頭に紹介されるのは、アメリカで実際に起こった事例である。脳死と診断された女性が妊娠
17週目であり、退治を出産させるため、胎児が体外で生存可能な時期に至るまで女性を生命維持装置によって生き続きさせる。赤ん坊は無事出産され、女性の両親に引き取られることとなったが、これは倫理的に正しいのか、間違っているのか。

補足しておくと、第二章において紹介されるハーバード脳死委員会の定義、つまりは全脳死(脳幹を含む全ての脳機能の不可逆的停止)が、現在、先進国の間で最も主流な「死の定義」である。したがって、定義自体は本書が書かれた時点から大きく変化してきてはいないと思われるが、脳死の判定技術などは間違いなく進歩しており、新しい認定基準等も打ち出されていることだろう。ちなみに、日本では臓器移植法に基づき、臓器提供の場合に限って脳死が法律上の死とみなされる。脳死と判定するためには、(1)深いこん睡(2)瞳孔の散大と固定(3)脳幹反射の消失(4)平たん脳波(5)自発呼吸の消失、の全てを満たし、かつ6時間たっても状態が変わらないことを確認する必要がある。

脳死の患者はもちろんのこと、安楽死の問題や中絶の問題まで、取り上げられる事例は非常に幅広い。そうした事例を通じて、我々がこれまで抱いてきた生と死に関する5つの倫理的戒律を改め、新たに5つの戒律を定める。そして、それらの戒律によって、事例を検討していく。まさにシンガーが実践的であるといわれる所以である。彼が考え出した5つの戒律とは以下のものである。

 

Ⅰ.人命の価値が多様であることを認めよ。:人間本性や他者との関係などの倫理的に重要な特徴に応じて人間の価値を考える。例えば、意識のない生命はそれ自体価値がないが、他者との関係において価値が生ずる場合がある。そうした価値を前提にして、生命を維持・停止したときに発生する利益を「比較衡量」するのだ。

 

Ⅱ.決定したことの結果に責任をもて。:作為的行為だけでなく不作為においても責任が生ずる。したがって、行為(不作為)の過程ではなく結果において、その行為(不作為)が正しいか否か、もっといえばⅠの「比較衡量」が妥当に行われていたか否か、という点で行為者(不作為者)の責任が決まるのである。しかしながら、不作為を考慮すると責任の幅が無限に広がってしまうため、責任の範囲は将来追求されねばならない。

 

Ⅲ.生死に対する個人の欲求を尊重せよ。:「人格だけが生存権をもつ」ため、人格を本人の意思に反して殺すことは不正である。

 

Ⅳ.望まれた子どもだけを生め。胚の潜在性の議論は、「新たな人間が存在するよう促進するのはよいことだ」という前提が伴っているが、この前提は絶対ではない。その子の、そして親自身の人生をより良いものにするためにも、望まない子どもを中絶することは間違っていない。

 

Ⅴ.種の違いを根拠に差別するな。:程度の差こそあれ、人間と同様に、倫理的に重要な特徴をもっている動物達も保護されるべきである。つまり、倫理的に重要な特徴があることが生存権につながるのであり、その意味において、倫理的に重要な特徴を有しない人間の生命の価値とそのような特徴を有する動物を比較すれば、動物の方が価値があると考えることができるのである。したがって、前者の人間に対して後者の動物以上の保護を与えることは正当化できない。

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2010-01-27(Wed) 15:23| 評論| トラックバック 0| コメント 0

『国家・社会変革・NGO―政治への視線/NGO運動はどこへ向かうべきか』

国家・社会変革・NGO―政治への視線/NGO運動はどこへ向かうべきか
国家・社会変革・NGO―政治への視線/NGO運動はどこへ向かうべきか藤岡 美恵子

新評論 2006-12
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本書は私の卒論のアイデアの下地となった本である。様々なNGO(非政府組織)活動経験者の方々が集い、現在のNGOのあるべき姿について論じている。
 
市民社会は企業、政府、市民という三つのアクターによって構成されており、市民生活の向上を目的として活動するNGOは、市民を代表する組織として政府や企業の権力の濫用を監視するべく、その「非政府性」を生かした政策提言を積極的に行うべきである。しかしながら、現在のNGOは「非政府性」を保ちえているのだろうか。アジア太平洋資料センターは、資金を日本政府に依拠していたため、活動中に日の丸つきの帽子を配布せざるを得なかった。米国際開発庁長官は、NGOが米国政府の片腕であることを明確にするべきと主張する。
 
日本政府とNGOの関係詳しくをみてみると、政府は「日本NGO無償資金援助協力」の資金を使うNGOに対して、可能な限り日章旗又はODAマークを掲げることを義務付け、NPO法においては政治活動を行わないことを条件にNGOに対して法人格の付与を認めている。アフガニスタン復興支援国際会議におけるNGO排除問題も記憶に新しい。NGOの「非政府性」とは「政府からの影響を受けない」という意味であって、「政治に関わらない」という意味ではない。こうした日本政府の姿勢は、NGOの「非政府性」を誤って捉えているように思える。
 
また、国際連合との関係をみてみると、経済社会理事会(経社理)における協議資格制度は導入されているが、認定には各国政府による承認が必要、経社理のみでは権限が限定されるなどといった問題を抱えている。また、実際に、私の活動していたNGOの職員は、「国連は大きなNGOと協力はするが、我々のような小さなNGOとは全く協力しようとしない」と言っていた。こうした事実から、実質的な協働を達成する上で経社理制度のみでは未だ不十分であるといえるのではないか。
 
これらの諸制度は依然としてNGOの存在を軽視しているといえるが、NGOという概念自体が未だ発展段階にあり、こうした制度上の不備も忖度できる。政府や国際機関などの大きなアクターにおいて、法制度の改変というのは非常に難しく、NGOは、それをただ待つといった他人任せ主義に陥ってはならない。したがって、我々は、政府の法整備に期待するだけではなく、市民つまりNGOの側からすべきことを考えなければならないのではないか。その手段として私の論文では、NGOのエンパワーメントをビジネスモデルで行うことの有効性について述べていくが、ここでは割愛させていただく。
 
公だけでは対処しきれない市民一人ひとりの活動に即した細やかなサービスの提供という面で、市民が担い手となる市民団体は必要不可欠であるはずだ。加えて、サービスの提供に留まらず、今の行政機関が持つ様々な問題に気付き、政策提言活動を通じて行政の改善を訴えることも、民主主義の国に生きる市民の役目ではないだろうか。市民の代弁者として、NGOが「政策市場」において政府と対等に競い合う主体として機能することが期待されているのである。

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2010-01-21(Thu) 08:48| 評論| トラックバック 0| コメント 1

『政治家とリーダーシップ―ポピュリズムを超えて』

政治家とリーダーシップ―ポピュリズムを超えて
政治家とリーダーシップ―ポピュリズムを超えて
岩波書店 2001-12
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本書は、政治家がリーダーシップを取るための条件を歴史上の事例・人物を通じて考えていくのであるが、同時に、パレスチナ問題やテロリズムなどの世界情勢の分析も行われている。前者と後者がどのように結びつくのか私には定かではなかったが、総じて多くの参考文献を引用しながら、非常に示唆に富む考え方が多かった。
 
これまでの書評の中でしばしば述べてはいるが、国家においては、民主主義を基本に置きながら、戦略策定等の政策専門事項は「真のエリート」(『国家の品格』)が行うべきであると私は考えている。こうした「真のエリート」は官僚や政治家の中にいるべき存在であるのだが、近年の政治不安や汚職事件を見てみると、どうしても「真のエリート」が政権を引っ張っているとはいえない。こうした現状を、山内は「デモクラシーの社会において、きちんとした大局観や総合力をもち国民の利益に奉仕するエリートをどう育てるべきかといった議論が国民世論に欠けている」と言い表している。特に、子供の能力や資質を無視して平均化する公教育を理想とする「教育ポピュリズム」なるものが、愛国心や忠誠心といった日本人として持つべき資質を否定してきたと主張する。
 
私としては、戦後日本の「教育ポピュリズム」よりも、単純に戦前の軍国主義への反省が愛国心の否定の原動力となったと解釈する方が説得力があるように思われる(「教育ポピュリズム」についての理解不足であれば申し訳ない)が、「ゆとり教育」の事例に見られるように、近年になって一層盛んになりつつ(むしろ過激になりつつ)ある「教育ポピュリズム」が青少年に大局観や総合力を身につけさせるための教育の質を低下させてしまったという点には大いに賛成である。日本人の学力低下を受けて、「ゆとり教育」は2008年の新学習指導要領案をもって方向転換がなされたが、日本人をどのように育成するべきかという教育のグラウンドデザインを文科省がいかに指し示せるか。日本の将来はこの一点にかかっているといっても過言ではない。
 
教養は、人間が大局観や総合力を身につける上での基礎となるものである。こうした大局観が種々の状況における判断力を高め、重要な局面での天才的な閃きを与える。集団を統率し業務を遂行していく上で、このような大局観や総合力の元になる教養は必須の要素といえるだろう。本書はリーダーシップの条件について、このような業務的能力を中心に分析を行っているが、ここに私はもう一つ重要な要素を付け加えたい。『国家の品格』でも少し述べたが、それは「他人の痛みが分かる心」である。いくら論理的に状況分析ができても、いくら集団を統率するカリスマを持っていたとしても、他人の痛みが分かる人間でなければ意味が無い。業務遂行的な要素のみを考えれば、ヒトラーでさえ素晴らしい政治家になってしまう。
 
大切なのは「心」の教育である。高校時代、『なぜ人を殺してはいけないのか―新しい倫理学のために (新書y (010)) 』という本を読んだときに、私はその理由を深く考えた。同書の結論では、「社会があるから」というのが答えであり、高校生の私はそのことに大きな疑問を抱いたのだ。確かに、一面では社会があり罰則があるからこそ人を殺してはいけないのだろう。しかしながら、本当にそれが答えといえるのだろうか。
 
会津藩の什の掟の最後には「ならぬものはならぬものです」という言葉がある。つまり、理由が無いが行ってはいけないことが人間にはあるのだ。理由は無いが、人は殺してはいけないのである。しかしながら、敢えてその理由を考えてみると、私は、「他人の心の痛みが分かる」ことこそが根本的な要因であると思うのだ。自分がされて嫌なことは相手にもしてはいけない。個人によって程度の差こそあれ、相手に対して多少なりとも共感するからこそ、相手の痛みが分かるからこそ、人を傷つけることはできないし、人を殺すこともできない。私達は「人を殺してはいけない」のではなく「人を殺すことはできない」のである。インドの友人も言っていた。「そこに愛があるから罪悪感を感じ、人殺しはできないんだ。」
 
では、人間はどうして愛を感じ、罪悪感を覚えるのだろうか。心理学では、他者への共感を覚える心理的要因を、幼少期に家族から受けた愛情がもとであるとする説が一般的である。つまり、幼少期に家族からの愛情を受けることができないと、他者の痛みが分からない、他者を愛することのできない人間になってしまうのである。本書において紹介されているヴィグディス・フィンボガドティル女史の「母と子の間の情緒的結びつきこそが、究極的にどの文明にとっても基礎となる」という言葉は、こうした幼少期における愛情の重要性を語っているのではないだろうか。母親からの愛情が人の心を育て、結果的に生まれる思いやりある国民が文明を築き上げていくのだ。
 
 
「真のエリート」を生むには本書が提示するような教養も重要であるが、それ以上に、思いやりのある心も重要であると私は思う。どちらを欠いても一国を牽引するリーダーにはなれない。これから人の親になる方々は、その子が将来、人を愛することのできる人生を送れる様に、精一杯の愛情を注いであげてほしい。それがこれからの日本という文明を高めていく上で非常に大切なことなのだ。

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2010-01-14(Thu) 15:05| 評論| トラックバック 0| コメント 0

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